島国大和のド畜生
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岡田斗司夫の落語2.0に関して
 岡田斗司夫の落語2.0宣言

 どうにも2.0というワードに引っ掛かりやすいなぁ自分。

 自分にとってのオタキング、岡田斗司夫と言う人は、商売人という印象が強い。良い意味で。

 「オタクはかっこいい」という耳障りの良い言葉でオタク読者を獲得した手腕や、最近ではちょっとしたblogとかやってる程度の人をクリエイター「プチクリ」であると提唱して支持を得ているのを見ると、本当に上手いなぁと感心する。
 この人の書いた「人生のトリセツ」は非常に面白かったのだけど、まさにそういうロジカルに心情につけこむ商売を実践しているなぁと思う。(心の底からホメ言葉)
 なので、自分は岡田斗司夫のファンだと言っていいと思う。

 で、その 岡田斗司夫が落語を始めて、落語2.0宣言に至るわけなんだけれども、ちょっとだけ違和感を感じた。意外だったと言う感じ。
 引用すると、
 次に、肯定でも否定でもない人の意見。
 「もっと落語っぽく話せばいいのに」
 「ちゃんと上下をつけて演技して、落語にすればいいのに、と思いました」
 「落語と名乗らなければ楽しめたかも」

 これらの人に共通しているのは、「落語とはこういうものだ」という定義がはっきりしていること。そして「その範囲内なら認められるけど」と考えているらしいこと。
 たぶんこういう人たちは「これは落語」「これは漫談」「これは講談」とはっきり区分けして考えているんだろう。その中間やまったく別の座標軸の作品を見せられても混乱するだけなのかもしれない。
 困ったなぁ。
 粋人であるはずの落語ファンは、どこにいってしまったんだろう?
 こういうことを考えるのが僕にとって「落語を勉強する」ということなんだけど、たぶんそれは彼らの言う「もっと落語を勉強しろ」という意味とは、かなりかけ離れているんだろうね。

「落語とはこういうものだ」と考えるお客さんと「粋人であるはずの落語ファン」と考える岡田斗司夫は、同じように自分の意見ベースで物を考えている。
 もともと、岡田斗司夫はこういうスタンスでなく、もっと視聴者側、受け手側の立場を意識して書く事の多い人だったと思う。自分が送り手側に回ったが故の違いかしらん。

 自分は落語を見に行く程の落語ファンでは無いので、自分のフィールドのゲームの話に例えるけれど「あんなものはゲームじゃない論争」と同じ香りを感じてしまう。
 新しいタイプのゲームが出てくると「あんなのはゲームじゃない」という古参ファンが出てくる。
 昔のSFファンなら「あんなのはSFじゃない」というともっと伝わるだろうか。
 自分は「あれもゲーム、これもゲーム」「あれもSF、これもSF」「あれも落語、これも落語」と全部認めていくのが、そのジャンルの隆盛の為には良いと思っている。

 だけれども、そのジャンルの旧来のお客としては、新しく隆盛したソレを楽しめないと思うんだ。

 「昔のゲームはゲーム性があった、今のはムービーばっかでツマラン!」と思っている人にとっては、ムービーばっかのゲームで業界が盛り上っても面白くない。
 旧来の落語が好きな人は新しい落語によってブームが起きても、それによって旧来の物が駆逐されるなら、そんなブームは来ないほうが良いに決まっている。

 で、自分的な勝手な結論としては、
【こんなの**じゃない、と思うようなお客さんは、ターゲットの客と違うので、気にしない。だからその客は逃がして良いけど、逃げた以上の新規客を捕まえにゃならぬ。(プラスマイナスでマイナスなら、そんなものに価値は無い)そして、収支がままならなかった場合、それをお客さんの所為にしちゃいけない。自分が認められないのは自分の責任】
 というものだったりする。自分が送り手側の場合の心の置き場所。

 岡田斗司夫が、客の所為にしてるってんじゃ無いです。自分なんかしょっちゅう人の所為にするし、うっかり文章にもする。

 ただ、自分が読者として知る岡田斗司夫はその辺が用意周到で上手い人だったので、わりとワキが甘いこの文章にはちょっと驚いた。まだまだこの人から目が離せない。そういう意味で、やはり上手い。
 この手のワキの甘さって、エヴァンゲの時以来じゃなかろうか。


2006/12/06(水) 03:12:08| 固定リンク|web| トラックバック:0 | このエントリーを含むはてなブックマーク|
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