島国大和のド畜生
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映画 シン・エヴァンゲリオン 感想
(画像はamazonリンク。著作権に触れないための処置)

 やっと見た。
 個人的には、非常に良い映画だと感じた。
 1995年から26年ぶりの解毒。長年ひっかかった小骨が取れる類の映画。

 公開されていた冒頭数分を視る限り、そんなにノレなかったのでどうしたものかと思っていたのだが、映画館に行ってよかったと思う満足感。

ほぼ3時間の長い映画なので、何度も視る、ということは無いだろうし、おそらく初期の感想が一番最後まで後を引くと思うので、見てきた勢いでさっさと感想を書いておく(自分メモ)

 勝手に感想を書く前に、自分とエヴァンゲとの距離を書いておくが。
アニメ、映画は一応全部見ているが、考察本や、副読本、キット、トイの類はほぼノータッチで、主に特撮的映像のアニメ化という部分で楽しく見ていた。
 自分にとってエヴァンゲリオンとは、
「毎週楽しみに視ることのできたTVアニメ版。しかしオチはいただけない」
「随分鬱屈したところばかり抽出した映画版各種」
 という2つに分類される。
 TVアニメ版はボトルショウ(1話完結モノ)として、シトが出た倒した、良いアクションでした、という見せ方がキッチリされていて、それだけで十分楽しかったのだが。しかし物語を貫くエピソードが最後空中分解してしまったので、そこでガッカリした。
 映画版に関しては、動きや画はハンパなくいいが、TV版で毎回の盛り上げどころとして用意されていたアクションや問題解決があれは興味を引くスパイスでした、ということで取っ払われ、本筋はこの衒学的パートと精神分析パートでござい、と空中分解に至る道筋を丁寧にたどってまた空中分解する、というものに感じられていた。

 だから、映画版はどれもこれも、そんなにノレてない、考察とか特に興味なし(だって、作者の手の上すぎるじゃん。オカルトだもの)というスタンスなので、エヴァンゲが大好きな人とはかなり意見が合わないだろうし、コテコテなオタなのは間違いないので一般人との意見も合わないだろう。
 実際の映像作品から得れる情報の解釈にしても間違いが多いかも知れない。

 そういった距離感の人間としてみたわけだが。
 今回の映画で、自分にとっては、当時楽しみにみていたTVシリーズの延長線上に決着がついた、という印象がある。

 では、 公式的にもネタバレ解禁となったので、以下ネタバレアリアリで書く。
 見てない人は絶対に回れ右。


 このあとはもう見た人以外が読んでも意味がわからないと思うが。見ないで読むと台無しなので読まないで欲しい。

■感想

 160分近い長さの視聴体験だが、更にそれが長く感じる映像密度で圧倒される。
 それも意識して配分されており、良くこんなに神経の行き届いた仕事がなされていると感心する。

 切り出して公開された冒頭の映像に感じた不満は、全く地に足のつかない感じに対するものだったわけだが(宙吊り戦闘なので、その意味でも地に足がつかない)。
 これは冒頭数分切り出して視るからであって、その直後に地に足がついた地べた這いずる話をやるわけなので、そりゃ設計上ああなる。
(あとあれは、完全に映画館で見ることを前提とした構図なので大画面TVでみてても良さがわからなかった)

 地べた這いずる話が長いのだが、キャラクターの思考の動きにはそこでの積み重ねを必要としているから、これも仕方がない。

 地べた這いずる話からまた、まったくの訳のわからぬ空間での話になっていくので、地べたを意識させた後でなければそれは無理だからだ。

 自分にとって映画版Qは、かなり不満が多かった。
 話を盛り上げるための振る舞い、ピーキーさ。「説明不足による最悪の事態」というのはこの手の映像作品では使われがちだが、それにしたって「説明不足の理由」が足りない。
 そこから長い沈黙の後の「はいはい全部解決しますよ、説明しますよ、やりすぎなぐらい説明ゼリフやりますよ」っていう、このシンである。
 まぁ思い返せばエヴァンゲリオンは説明セリフが大量にある映像作品であったので正しい着地である。

つまるところこれはTV版の最後が制作スケジュールやメンタル不調による、意味不明の投げっぱなしにならなかった場合、ちゃんと着地したらこうなっていたのではないのかと思わせる、盤上この一手である。(ここまでこう進んだらこう落とし前をつけるしか無い)
 それはやはり、ゲンドウとのこの形での決着が必要だったのだ。

 長いシャクを使って、浮足立たせて、地べた這いずらせて、その反動でよくわからん世界にまで吹っ飛んで、もはや人間が認識できない状況として都合の良い世界にまでもってきた上で。

 この物語に関わった人間の、過去の立ち位置から現在の立ち位置、そしてこれから。それぞれの状況を解毒していく。
 それは、視聴者の解毒でも有る。

 呪いとはよく言ったもので。それを全部解呪していく。

 衒学的によくわからない説明を並び立てて煙に巻く構造のほとんどを解体し「え?そこまで説明セリフで説明しちゃうの?」という懇切丁寧ぶりである。
 ほぼ全てに置いて、謎とされていたことを、だいたいのこところセリフと映像でで説明しちゃったんじゃないのこれ? という予想をうらぎるサッパリ加減。

 またどうせ終わり間際にウンコぶつけるような事すんじゃねーのと思っていたらそれをせずに綺麗に終わらせたのであっけにとられた。(まぁ映像表現としてわざと冷水ぶっかけるような表現はあるのだけど)

 唐突に感じそうなネタはそれぞれ先出ししてから扱うという、ちゃんとしたフリをつくってウケて落とすという、唐突感がない楽しい映像作品となっている。

 この綺麗な終わりっぷりは、やはり、碇ゲンドウまで解毒してしまったことにつきるのではないか。
 そこまで覚悟して作ったのがまずスゴイ。もう何も残さないというスタイル。

 ゲンドウとユイ、シンジの関係。そしてゲンドウがユイを求めるがゆえに遠ざけたシンジのなかにユイをみる。そしてシンジが自分の中にユイを感じるという。物語のきっかけとそこでこじれた世界線がよりを戻すためのすべてをちゃんと消化して終わる。
 すべての謎は謎の形を失う。

 結局、上っ面を見ている分には、すべての種明かしがなされてしまった。あとは見る人の心の中で決着をつければいい。
 さらばすべてのエヴァンゲリオンとはよく言ったものだ。
 特に泣くような映画ではないが、感情的には涙が出てもおかしくない。26年溜めたストレスの開放である。


■ 個人的な引っ掛かり、個別感想
 ちょっとだけ引っかかった部分と、個別に印象に残ったところを羅列する。

・そこはそれでいいのか
 いやさ、この構造の映画でここに文句を言うのは間違っているのだが。
 やはり、どうやってこの状況下からシンジをエヴァンゲリオンに乗せるのかって興味ポイントじゃん。物理的に無理なんだからどうするか気になるじゃん。
 まさかあっさり解決すると、それは流石にないわーずるいわーと思うじゃん;;

・真希波の立ち位置
 あと、決着をつけるためのキャラ(欠落を埋めるためのキャラ)としての真希波だけど、結局新キャラ足さないと決着つかなかったってのは、TV版での決着を期待していた身としては、突然でてきたキーパーソン過ぎて、さすがにこれはもっと先に前ふりしておいて欲しい(26年前に)という感じはある。
 だがこれも、今までの誰でもなかったからこその救いでもあるしメタでも有るのだろうから、それを言うのも野暮なのだろう。

 んだけど、劇中での真希波とシンジの接点はほとんど無いので、さすがにこれは、私小説的内意味合いを勘ぐって補完しないと難しい。

 突然現れた他者によって救われる。
 この救いはしかし、救われない人も当然いるので、ボンクラオタクの救済にはならない。
 数十年かけて作られた鬱屈のなかで、鬱屈の中心人物は空から振ってきた女の子に救われてしまうが、その鬱屈に付き合ってきた視聴者には救われたものも救われなかったものもいる。
 映像エンタメ作品に救済を求めるても仕方がないのだが、そこに救済を求めてしまう人が出るレベルの作品だった。
 そして、救済せず、一緒に地獄にも落ちず、中心人物にはイチ抜けたされてしまった。
 突然空から振ってきた女の子によって。

・CGの違和感
 手際よくコントロールされたCG映像は見事な出来で、気合の入った手書きと混ざって遜色のない素晴らしさ。
 大体において違和感のある、不気味の谷を超えれないCG映像というのは、コントロールが効いていないだけで、ちゃんと作り手の意識が届くまで練りこめば、違和感なんか全部消せる、という高コストであったろう映像群。

 しかし、やはり映像化に向かないものの違和感(巨大綾波とか、首なしボディ大行進とか)は、手書きよりも当然違和感がでかく、違和感を狙った演出だとしても、萎える方向に効果を発揮しており、苦手。

・ピンク髪の役割
 大抵の変なものやおかしなことに、ピンク髪が「ヘンだ」とツッコミを入れたり、いままでなら説明ゼリフで語られていたものに対しピンク髪は「エヴァっぽいの」という雑な認識をする。そのおかげで「これはこういうものだ」「考察は無駄だ」「こんなところに細かい興味を持っても無意味だ」と、色々なものをバッサリ切除していく。
 彼女は外部の視点だし、エヴァンゲリアルタイムでない世代のツッコミを代弁していく、めちゃくちゃ便利なキャラなのだけど、便利すぎる割には、それ以外の役割は与えられていないので、肩透かし;
(サクラ爆発のミスディレクション要員)

・加持、ミサトの扱い
 加持の目的が明かされ、ミサトの父の立ち位置が重要ポジションに改変され(記憶違いかも知れないけど、たぶんこれ今作からよね?(立ち位置的にはQから))結果的に話はスッキリしたけども、加持はすでに舞台から退場済みで説明セリフのみでそれが語られる。
 ミサトには、シンジと同じレベルの「世界を滅ぼした親の子という呪い」が強くかかってしまう。
 そしてわりとミサトの扱いは粗雑なのである。
 エヴァー(ミサト発音)の呪縛が強い人達って、ゲンドウ、冬月、ミサトで、この人達はこの人類補完計画バトル以外をすべて捨てている。ゲンドウもフユツキもユイラブ過ぎるので仕方がないが、ミサトはほぼ贖罪意識なのではないか。またこの設定改変がなければ、彼女が特攻するだけのモチベーションを用意しきれなかったのではないかとも感じる。
 これは割りを食ってるなぁと。

・カヲルとゲンドウの関係性
 「うふぇっ」とか変な声が出そうになったよここ。いつから考えてたのこれ;;
 TVシリーズの段階からこれを想定してカヲルだしてたの?
 殆ど二次創作で語られたようなシーンが多いこのエヴァンゲの中で、ここは俺まったく想像もつかなかった。
みんなこれ予想ついてたの? すげぇな!!(俺節穴だな!!)

・ミサトとゲンドウの親子関係の類似(とそれをサポートする冬月とリツコ)
 これは多分この映画版になっての改変によって調整されたよね?
 Qの時点ではまだここまで設計されてなかった気がする。(旧作や、TVではそもそもこの対立構造ではなかったので)

・共同体の善性
 大人(トウジ、ケンケン、委員長、おばちゃんズ)が全部いい人すぎてウラが無いとか、共同体が理想的すぎるなどは気になるのだが。対比のための場所だからそこをこじらせると元の木阿弥の可能性もありこれは仕方がないとも思うのだが。
 ただQとのギャップが。
 そもそもまともな大人が全く居なかったこれまでの世界と打って変わって、まともすぎる、立派すぎる大人ばかりだ。
 ケンケンもトウジも人間ができすぎだし、委員長とかもはや善性しか無いのだが、それは彼らがそこまで成長するいろいろがあった、シンジとも縁があったと思えばいいのだが。おばちゃんズはなんでやねんと思う。
 あそこに居た人たちにせよ14年前はあのビル街で働いていた人だとして、農業にめっちゃ適応しているのはその14年で色々あった、で良いのかしらね。

 シンエヴァンゲリオンの内包するメッセージの1つは「問題を解決しなくていい」「無視していればそのうち興味を失う」「興味を失った問題は解決しなくていい≒解決したも同じ」というものだと思うのだが。
 この第三村の人達は、エヴァもネルフもヴィレもまぁどうでもいいと言うか、解決できない問題として捉えており、それは解決できないのでコミットせず、自分たちの生活のために活動している。子供が嫌う大人の態度だが、これは一つの回答として提示される。

 旧エヴァンゲリオンで、あまりにも自分とその周辺だけにフォーカスした作劇によって、神経症のようになっていた物語構造が、他者の視点、外部の視点、興味を持たない視点の介在に寄って、地に足がついていくというのがシンの作り方だと思うのだが。
(かつて何度も描かれたシーンが、また描かれる、しかしそれは割と肯定的に描かれる)

  シンジの抱える問題の全ては「それ自分と関係ない」と思えば解決する類なので(真希波がいう、「エヴァに乗るかどうかで悩む人なんかいるんだ」というあれ。)彼の問題解決はほぼ、この超越した大人達の態度によってクリアされる。
 そういう話だからこそ、この共同体も大人も完全に善として描かれていて。いやいやそうはイカンだろ、しかしここをリアルにドロドロ書くのは難しいだろっていう、難儀な印象。

 そしてこれは、エヴァンゲリオンへの興味を失っていく、視聴者、作り手のメタだろう。
 メタにしては善意にあふれているので、優しい世界が構築されるが、これも、エヴァンゲリオンにずっと付き合ってきたコア層からみて、いやいやそんなに外部や優しくないし、興味もないだろ、という印象はあるだろうと思う。
 興味の無さを優しさに置き換えるか、冷たさに置き換えるか、という部分、捉え方次第という部分なのだが。

・特撮的なアクションは少ない
 TV版のエヴァンゲリオンは特撮的なアクションが自分にとって一番の見所だったのだが。
 この場合の特撮的アクションというのは手前に電柱とか電話ボックス、奥に遠景として空、間に怪獣とビル街、という構図をつかったったあれ。
 あとは、局部アップで、足元ズガーン、揺れる自家用車。みたいなモーションのフリと受けの快感。
 
 造り手がもう飽きてしまったのと、お話が進みすぎてしまったのが大きいと思うのだが。

 シンエヴァンゲリオンでは、 ごちゃごちゃした形状のごちゃごちゃしたメカが、カメラブン回しで戦う、時々わけが解らなくなる、という、わりとアクションとして楽しみにくい映像になってしまった。
 このアクションはすげぇってのは、シンジにレーション食わすところぐらいで、あとはどうにも「よく動いていたが印象に残らん」という感想になってしまう。
 このあたりのわかりやすさが半端なかったエヴァンゲリオン(特にTVはとてもわかりやすい)としてみるとつらい。(Q辺りから作り手がもうそういうのに飽きたんだと思う)

 アクションシーンが全体的に地に足がつかないのも物語の構造上仕方がないのだが、特撮っぽいアクションの良さは今回は楽しめない感じ。

 あとで仕入れた情報だが、ミニチュアを作ったり、モーションキャプチャでシーンを作ったりして、そこからカメラアングルをさがす、という作り方をしたようだ。(いわゆる絵コンテをプリビズ化するのではなく、コンテなしからのプリビズ作成)

 多分これが原因だなぁ。
 その結果が「生理的に気持ち良いカット」が減った。につながっている気がする。

 初期のエヴァンゲは、ただただ生理的に気持ちいアングルとタイミングが立て続けに続くようなカットがあり(OPとかで顕著)あれが好きだったのだけども。
 第一話のシトvs自衛隊とかもすげぇよくて。

 あれはアニメータの脳内で整理され尽くした構図だからできるわけで、、3Dやミニチュアからアングルを探す、という作り方とは相性が悪い。

 一度アニメーターの脳内というフィルターを通した映像は、解りやすいから、3フレームもあればそれが何かを脳は理解できるのだが。
 実写的な情報量を含む映像は、瞬間で理解できない。
それ故に、画面は派手だがなんだかわからんカット、わかりにくいだろうから長回しでちょっとタルいカット、みたいなカットも増えてる。
 攻めたカメラアングルも好きなので、それはそれで良いのだが。分かりやすい情報が濁流のように流れ込む、というのはとても気持ちが良いので。そういうシーンが無かったのはやはり期待したものが見れなかった寂しさは有る。

 今回のアクションが自分的にはイマイチ気持ちよくな買った理由はこの辺だろうな。

 とは言え、同じような映画ばかり作っていては、作り手としては面白くないだろうからしゃーない。
 この辺は、両方の良さをうまく混ぜてくれると、個人的には嬉しかったが。

・長年引っ張ったせいでのネタかぶり
 あとやはり、この26年の間に、まどかマギカとがが有ってしまったので着地点に新味を感じにくくなってしまったのが皮肉;
 そう言えばインタビューでは、初期案は進撃の巨人とカブってたといってたな。
 ネタかぶりもなにも、エヴァンゲリオンがやりだしたことの影響を各種フォロワーや間接フォロワーが受けて、エヴァンゲリオン的なものの解答がいくつも作られてしまった。そりゃもうどうしようもない。

・嫌な見方をしてしまえば
 突然の真希波による救済(まったく接点が内にも関わらず、やたら距離感が近く最後には救いの女神となる)は、これは庵野氏の嫁さんによる、鬱からの救済のメタというか、庵野氏が救いがあり呪縛から抜けたが、救いのない視聴者にはなにもないかも知れない。というふうにも見えてしまう。
 まぁ視聴者全部が未婚者で救われず拗らせている、というわけでもないだろうが。
 ただ、この救済は誰にでも与えられるものではないので、そんな「空から降ってきた幸運があれば解決できるよ!」みたいなオチでほんといいのかよ、というのはある。

・なんか二次創作っぽい
 そりゃまぁ同じネタで3周も作り直せば仕方がないか。

・元ネタ
 映像作品において、作品外やメタはあんまり意識せず、予備知識がなくても楽しめるのがベストと思っているのだが。
 自分自信「ゴルゴダ」と言われてまず聖書よりもウルトラマンエースを思い出す方なので。(そりゃマイナス宇宙とか裏宇宙とか言われると、聖書よりもエースだろ)
 こうなると、映像作品街の情報も意識せざるを得ず。そもそもエヴァンゲはそういう作りの映像作品なので。
 割り切ろうにも割り切れないのも難儀なお話。

・物語からの離脱
 最後の最後、駅=列車=レールに乗ったもの=定められた運命、から手をつないで駆け出していく、物語世界から離れて現実に駆け出していく。物語世界自体は美しく幸せにそこに残っている。
 観客に冷水ぶっかけたり、説教しなくても、お話きれいに終わらせれるんじゃねーかよ;;

・巨大な母性の暴走
 これ、ユイと綾波の母性の暴走に飲まれてそれから逃れる、精神の成長のない少年の話、という側面が有るように見えるので。
(1つの話に複数の話を盛りまくるのはまぁこの手の構造ならよくあるとは思うが)
 というか、もっとあれだ。
 実は登場人物誰も彼もがシンジに好意を寄せているという、生暖かい檻のような環境。
 (母だから、仕組まれているから、なんかしらんけど、その他諸々の理由で)年頃女性は全部シンジにぐいぐい寄ってくる。
 何もせずに成長しなくても庇護されるという、むしろ成長にフタをされているような状況下。
 そこからの脱出。(これ脱出の必要あるのかといえばある。これは虚構の中だからだ。) 

 まぁいろいろ盛りまくってるなぁと思う。

■ とはいえ

 正直この規模の話を立ち上げ、ココまできれいに落ちをつけることが出来るとは全く思っていなかったので。
 凄まじいと感じる。
 いや、作品としては結構あちこち不備だらけなのだろうけどこの規模をこの期間をかけて作って、この程度の不備ならば奇跡だろう。それをするには相当な色々があったに違いない。

 最終的に決着をつけるために庵野氏が会社を立ち上げ、自分のコントロール下にすべてを置いたというのはスゴイとしか言いようがない。とんでもない覚悟。

 責任の所在がないと、この規模の創作物をつくるのは無理である。例えば外注仕事でこの内容になるべくリテイクを繰り返したら契約問題になる。
 こんなものは内製でしか作れぬし、内製でやっても成功率は低いだろう。
 ものすごい才能のもとに才能が集結したということではないか。

「少年少女が活躍するロボットアニメを作る」
 というお題(だったかどうかは知らないが)に対し、「ロボットじゃなくて人造人間です」「実は神様を真似て作りました」「科学じゃないですオカルトです」と、真っ向からすべての既存フォーマットをズラし、斜に構えた作りを数十年前にやってのけ、それが今まで引っ張りとうとう完結したというのは、相当の覚悟がないと出来ない。
 こんな物を生み出そうと思ったら、一体何をどれだけ犠牲にしなければ出来ないのか。

 素晴らしい完成度で決着を見て、関係者全てに、「お疲れ様」である。犠牲になった人にも「お疲れ様」

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